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児童養護施設 「積慶園」

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   00/03/19 (Sun)  京都の児童養護施設指導員がわいせつ行為 市は犯罪通報せず/京都
2000/03/19(日) 朝日新聞 大阪地方版/京都 京都版
京都の児童養護施設指導員がわいせつ行為 市は犯罪通報せず/京都

 京都市内の児童養護施設で六年前、主任指導員だった当時三十歳代の男性が、小学生の入所女児が寝ている部屋に宿直の夜間巡回の名目で入り込み、体を触るなどのわいせつ行為を約十カ月にわたって繰り返していたことが十八日、わかった。この施設は、事実が発覚してから約一年間、市に報告せず、市は「強制わいせつに該当する犯罪行為」との報告書をまとめたが、警察には通報しなかった。指導員は事実を認めて退職し、その後、指導員と女児の親権者との間で民事和解が成立した、という。

 この施設には、保護者がいなかったり、経済的な事情などで保護者が育てられなかったりする二歳から十八歳までの約六十人が共同生活をしている。

 市や施設長の説明によると、指導員は一九九四年六月ごろから約十カ月にわたり、月に五、六回の宿直勤務の際に特定の一人の女児に、添い寝をするふりをして体をさわるなどの性的虐待を繰り返した、とされる。

 被害者の女児は指導員の担当替えがあった半年後の九五年九月になって、施設の保母にうち明けた。「恥ずかしかったし、怖かった。みんなに知られたら生きていられない」と話したという。

 指導員は翌年三月に退職金を受け取り退職し、施設は同年九月に一部職員から指摘されて市に報告した。市の特別監査を受け、宿直の人数を三人に増やして男性の職員が女児の部屋に入ることを禁止する、などの再発防止策を講じたという。

 施設長は、市への報告が遅れた理由を「子どものプライバシーを守るため」、退職金の支払いは「指導員の将来を考えた。子どもの人権を守るという意味でいえば、もっと厳しい処分をすべきだった」と説明している。

 市児童家庭課は警察に通報しなかったことについて「当事者間で和解したと聞いていた。当時の判断は間違っていないと思う」としている。


   00/03/18 (Sat)  京都の指導員が女児にわいせつ 市に1年間報告せず
2000/03/18(土) 共同通信ニュース速報
京都の指導員が女児にわいせつ 市に1年間報告せず

 京都市内の児童養護施設で、元主任指導員の男性が入所している女児の体を触るなどのわいせつ行為を繰り返し、園長(68)が事件発覚後約一年間、市に報告していなかったことが十八日、分かった。                            
 同市などによると、当時三十歳代の元指導員は一九九四年六月から約十カ月間、月五、六回の当直勤務の際、当時小学生だった女児の寝床に行き、体に触るなどのわいせつ行為を繰り返した。元指導員が女児の担当を外れて五カ月後の九五年九月、女児が同園の職員に打ち明けて問題が発覚したが、報告を受けた園長は、園の記念事業が近づいていたことなどを理由に調査と市への報告をしなかった。

 園は児童福祉法に基づき、市への報告義務があるという。
 その後職員から問題を追及する動きが出たことなどから、園長は九六年九月、事実関係を市に報告。市は特別監査を実施して勤務体制などを指導、夜勤時の見回りは複数でするなどの改善がされたという。元指導員は諭旨免職になり、園長も減給処分を受けた。

 園長は「事件が公にならないようにと市に報告しなかったが、間違っていたと思う。指導員に対する処分ももっと重くすべきだった」と話している。

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2000/03/18(土) NHKニュース速報
児童養護施設の指導員 小学生女児にセクハラくり返し免職

 京都市内の児童養護施設で六年前、指導員が入所していた小学生の女の子の体に触るなどの行為を繰り返し、施設が事実関係を把握しながら京都市への報告を一年間行っていなかったことがわかりました。

 この施設は、京都市西京区の児童福祉施設「積慶園(セッケイエン)」です。

 京都市などによりますと、この施設では、平成六年から七年にかけ、十か月間にわたり、男の指導員が入所していた当時、小学生の女の子の体を触るなどの行為を繰り返していたということです。

 女の子は半年後の平成七年九月、別の職員に訴えましたが、施設では記念行事を控えていたことなどを理由にすぐには調査を行わず、施設を所管する京都市に報告したのは、指導員を諭旨免職にしたあとの平成八年九月になってからでした。

 京都市では報告を受けて特別監査を行い、宿直体制を見直す改善策をまとめさせたということです。

 これについて「積慶園」の古村正(フルムラタダシ)園長は「指導員への処分が軽かったこと、調査や報告が遅れたことはいずれも問題で、反省している」と話しています。

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2000/03/18(土) 毎日新聞ニュース速報
<特報・性虐待>児童養護施設の指導員が女児に 園長が無策

 京都市西京区の児童養護施設「積慶園」(古村正園長、入所児約60人)で、元主任指導員の男性が10カ月間にわたり入所女児の体を触るなど性虐待を繰り返し、園長が事実を把握しながら何の処分もしていなかったことが17日、分かった。施設が市へ報告したのは1年後で、既に指導員は退職していた。園長は報告を大幅に遅らせた理由を「指導員の将来に配慮した」と説明している。児童養護施設での性虐待では今月8日、「恩寵園」(千葉県船橋市)の元職員が強制わいせつ容疑で逮捕されたばかり。施設という“密室”で性被害が潜在化している。

 【児童虐待取材班】

 関係者や市の内部資料によると、元主任指導員は1994年6月から95年3月ごろまでの間、月に5〜6回の当直勤務の際に、寝ている女児(当時小学生)のふとんをはがし、体に触ったり抵抗するのを押さえつけてわいせつ行為を繰り返していた。元指導員が女児の生活寮の担当を外れた半年後の95年9月、女児が担当の保母に打ち明けて問題が発覚した。女児は「恥ずかしかったし、仕返しが怖かった。殺されるかもしれないと思って話せなかった」と語ったという。

 この話を聞いた職員は翌日園長に報告し、女児から事情を聴くよう訴えた。しかし、古村園長は2カ月後に園の50周年記念事業を控えていたことなどを理由に「この問題は当分の間凍結させてほしい」と言って先送りし、直接事情を聴いたのは3カ月後だった。職員の間から「同じ施設で(加害者の指導員と)顔を会わせなければならないのはひどい」との声が上がり、元指導員は96年3月末付で依願退職した。

 ところが、園側は問題を追及した職員ら4人をこの直後に降格処分や配置換えにした。職員らが反発し、労組を結成して本格追及する姿勢を見せたため、同年9月、園側は初めて市へ事実関係を報告した。事態を重視した市は、園に対して指導監査を実施した。その結果、「元指導員の行為は強制わいせつ罪に該当する犯罪行為で、民事的にも損害賠償責任が問われる反社会的行為」「園長が事実を知ってから約3カ月間具体的対応を全くせず放置し、元指導員の退職で円満解決しようとしたと推測される」との報告書をまとめた。

 同園は国や京都市の補助金で運営されており、この中から元指導員への退職金数百万が支払われた。

 ◇古村正・積慶園園長の話◇

 職員の(責任追及の)動きがなければ確かに市へ報告していなかったかもしれず、反省している。被害に遭った児童の傷を思うと、もっと厳しく懲戒処分すべきだったかもしれない。

 ◇相次ぐ児童福祉施設での性的虐待◇

 児童福祉施設で保護された子供たちが職員らに性的虐待を受ける被害が最近相次いで発覚している。

 1998年10月、鹿児島県内の一時保護施設の男性職員が、中学3年の少女(14)に自宅や車の中でみだらな行為をしたとして逮捕▽97年3月、島根県立の児童自立支援施設で男性指導員が担当の複数の少女に暴行やセクハラ発言を繰り返し、停職3カ月の処分▽96年4月、神奈川県内の児童養護施設で男性職員(28)が女児(14)をホテルに連れ込み、みだらな行為をしていたとして逮捕――などのケースがある。

 児童福祉法に基づき、自治体は、児童の福祉に有害と認められる場合、法人に改善勧告や業務改善命令を出すことができる。だが、厚生省が把握している勧告は、園生を通学時や帰宅時以外、特定の部屋に閉じ込めていた神奈川県鎌倉市の児童養護施設(99年9月)など、体罰関連の4件にとどまる。

 園生13人が施設を脱走した「恩寵園」の問題をきっかけに98年2月、児童福祉法が改正され、施設長が子供を注意する際、「身体的苦痛を与えたり人格を辱めるなどの懲戒権を乱用してはならない」との項目が追加された。また、厚生省は権利侵害が起きた場合は速やかに自治体報告させるよう通知を出したが、抜本的な対策にはほど遠いのが現状だ。

 津崎哲雄・佛教大社会福祉学部教授(社会福祉)は「児童福祉施設では施設長が親権を代行するが、体罰はいけないという規定が98年の法改正までなかった。施設の外で行われれば刑事事件になるような虐待行為が、施設の内々で処理される密室性にメスを入れ、行政も確実に追跡調査する必要がある」と話している。

 ◇西出義幸・京都市児童家庭課長の話◇

 職員の行為は許されないもので市への報告が遅れたのも問題。直ちに特別監査を行い、宿直時に男性職員だけで女性の部屋に入らないなど宿直体制の見直しを含む再発防止策を取らせ、被害児童の心のケアにも取り組むよう指導した。


   00/02/24 (Thu)  「元気に育って」と武者人形贈る 島津有職堂が西京・積慶園の子らに=京都
1999/04/23 読売新聞大阪朝刊

「元気に育って」と武者人形贈る 島津有職堂が西京・積慶園の子らに=京都

 人形メーカーの島津有職堂(本社・京都市下京区)は、読売光と愛の事業団を通じ、同市西京区樫原角田町の児童養護施設「積慶園」(古村正施設長)に、武者人形を贈った。高さ約七十センチのよろいかぶと。同園では、端午の節句に、画用紙で作ったこいのぼりやかぶとを飾って祝うという。

 同社は「子供たちの幸せを願いたい」と、一九七八年から、近畿六府県の保育所や母子寮などの福祉施設に対し、毎年一月末にひな人形、三月末に武者人形を贈っている。

 乳児から高校生まで八十人が入所する同園では、三歳児以下の十六人を預かる保育園「バンブーハウス」に人形を置いた。子供たちは武者人形を初めて見るとあって、珍しそうに触ったり、そばで遊んだり。

 主任保母の横山千秋さんは「泣き虫の子もたくましくなってほしい」と、武者人形に願いを託していた。

写真=武者人形をプレゼントされ、大喜びの子供たち

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1999/02/14 朝日新聞大阪地方版/京都
児童虐待防止を 地域の連携、大切さ指摘 左京でシンポ /京都

 児童虐待を防ぐため、地域のネットワークづくりを目指すシンポジウム「追いつめられた親子たち」が十三日、左京区岡崎最勝寺町の京都会館で開かれた。子どもの人権擁護や子育て支援を進めるため、関係の行政機関や民間団体が集まって昨年結成された「京都子どもネットワーク連絡会議」(事務局・京都市児童相談所)の主催。学校や児童相談所、弁護士らが現場で実際にかかわった虐待の事例を紹介し、どう防いでいくべきかを話し合った。

 まず西尾博・京都市児童相談所長が報告。同相談所が扱った児童虐待の件数は、統計を始めた一九九一年度に比べ、この三年間は三倍以上の水準が続く。殴るけるなど身体的な暴行に加え、言葉で傷つける心理的暴行や、必要な世話をしない放任、性的暴行など、さまざまな例があることを指摘した。

 具体的なケースをめぐっては、濱頭直子・西京区洛西支所健康づくり推進室副室長が「乳幼児の健康診断で小さな傷を持つ子を発見する。いわば『虐待予備軍』で、母親自身も悩んでいる。地域の子育て仲間を増やすことで救わなければ」と話した。安保千秋・弁護士は、周囲の関係者が虐待を疑いながら、確証を持てないうちに、母親が子どもを死なせてしまった例を紹介。「隠れた虐待を早期発見するには情報交換が必要」と訴えた。

 村上文人・児童養護施設積慶園アドボケーター(権利擁護者)は「虐待にまで至る理由は千差万別で、親を立ち直らせるためにも関係機関の協力は欠かせない」と話した。

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1996/10/28 朝日新聞 大阪地方版/大阪
第45回近畿児童福祉施設野球大会(27日)/大阪

◇第45回近畿児童福祉施設野球大会(27日・和歌山市民球場)

 【準決勝】積慶園(京都市)3―2聖ヨハネ学園(大阪府)

 【3位決定戦】聖ヨハネ学園24―2天理養徳院(奈良県)

 【決勝】積慶園7―3海の子学園入舟寮(大阪市)

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1996/10/27 朝日新聞 大阪地方版/兵庫
第45回近畿児童福祉施設野球大会(26日)/兵庫

 ◇第45回近畿児童福祉施設野球大会(26日・和歌山市民球場ほか)

 【1回戦】旭学園(和歌山県)13―6子供の家(神戸市)

 【2回戦】聖ヨハネ学園(大阪府)29―1舞鶴双葉寮(京都府)▽海の子学園入

舟寮(大阪市)5―3二葉園(兵庫県)▽天理養徳院(奈良県)13―7甲賀学園

(滋賀県)▽積慶園(京都市)24―1旭学園
 【準決勝】海の子学園入舟寮8―0天理養徳院

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1995/08/23 朝日新聞 大阪地方版/京都
第44回近畿児童福祉施設野球大会(22日)/京都

 ◇第44回近畿児童福祉施設野球大会(22日・大津市皇子山球場)

 【準決勝】東光学園(大阪府)18―5二葉園(兵庫県)
 【3位決定戦】天王谷学園(神戸市)9―8二葉園
 【決勝】積慶園(京都市)3―3東光学園=規定により抽選で優勝決定

1995/08/22 朝日新聞大阪地方版/京都
第44回近畿児童福祉施設野球大会(21日) /京都

 ◇第44回近畿児童福祉施設野球大会(21日・大津市皇子山球場など)

 【1回戦】和歌山市旭学園7―0舞鶴学園(京都府)
 【2回戦】二葉園(兵庫県)15―10甲賀学園(滋賀県)▽東光学園(大阪府)

7―0和歌山市旭学園▽積慶園(京都市)6―2聖家族の家(大阪市)▽天王谷学園
(神戸市)14―2天理養徳院(奈良県)
 【準決勝】積慶園9―1天王谷学園

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1995/07/07 朝日新聞 大阪地方版/京都
正午のサイレン(それぞれのキャッチボール:4)/京都

 前田勝宏さん(六一)は終戦の年、十一歳だった。通っていた大阪府布施市(現・東大阪市)の国民学校は休校し、友だちのほとんどは福井県へ学童疎開した。体が弱かった前田さんは残った。父親と二人の生活だった。玉音放送は自宅で聴いた。福井県に行った友だちの中には、向こうで空襲に遭って死んだ子もいたという。

 再び通い始めた学校で、陸軍の兵隊さんだった先生が野球を教えてくれた。物資不足の時代だったのに、なぜか、ボールと革のグラブがあった。クラスでチームをつくった。守っていた三塁から一塁までボールが届かなかった。

 一年後、自宅の玄関先で涼みながら、ラジオ中継に耳を傾けた。第二十八回全国中等学校優勝野球大会の決勝戦。大阪・浪華商(現・大阪体育大浪商)の平古場投手と京都二中(現・鳥羽)の田丸投手の活躍に胸が躍った。

 さらに一年後。一九四七年の夏、混乱した世相の中で父親の事業が失敗した。各地を転々とした後、十三歳で京都市内の養護施設「積慶園」に預けられた。以後、父親からの音信はない。積慶園には、親と生き別れた子や戦災孤児たち数十人が生活していた。

 昼食は、まだ青いトマトが一個だけという日もあった。いつも、ひもじかった。一番の楽しみは、園内の野球チームで遊ぶことだった。米国からの慈善物資の野球用具がそろっていた。遊撃手をしていると、仲間たちから「うまい」とほめられた。

 養護施設同士の野球大会にも出場し、京都市の大会で優勝した。近畿大会で惜敗した時は、みんなで悔し泣きした。

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 施設から通っていた市立中学校にも野球部はあった。しかし、部費を払う余裕はなく、入部しなかった。当時、養護施設の子どもたちに高校の学費までは支給されなかった。前田さんも進学しないで印刷工場に就職した。

 三十歳のころ、お盆休みに甲子園球場に一人で出かけた。全国高校野球選手権大会。観戦したチーム名は覚えていない。その日は八月十五日だった。正午に戦没者追悼のためのサイレンが鳴った。立ち上がり、目を閉じると、まぶたの裏に戦中から戦後にかけての様々な思い出がよみがえった。イモ畑になった校庭、友だちの疎開、B29の爆音、玉音放送、そして養護施設での日々……。

 「あの戦争がなくて世の中が平和だったら、高校に進んでいた。そこで野球をやりたかった」

 前田さんは六七年、独立して印刷工場を始めた。八月十五日になると毎年のように、妻と二人の息子を連れて甲子園に通う。そして、正午のサイレンを聞く。

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 京都市内には八つの養護施設がある。十年ほど前までは、六つの施設に野球チームがあり、近畿六府県内の養護施設による「近畿養護施設野球大会」への出場を競っていた。いま、市内の施設で野球チームがあるのは、前田さんがいた積慶園と、平安徳義会養護園の二つだけだ。平安徳義会は、今年四十四回目を迎えるこの大会で三年連続優勝を目指している。

 メンバーは、中学三年生が三人、二年生、一年生が一人ずつ、小学六年生が四人。最上級生の主将(一五)は仲間から「ぺーター」と呼ばれている。練習中、てきぱきと指示を出す。本人も「キャプテンになって、みんなのことを考えるようになった」と話す。

 監督の石田秀男さん(三四)はかつて同園から乙訓高校に通い、野球部で遊撃手として活躍した。七九年の第六十一回全国高校野球選手権京都大会では、ベスト4まで勝ち進んだ。今は会社に勤めながら、週末は園に来て後輩たちを鍛えている。「みんなが、いつまでも野球を続けてくれたらいいと思う」と話している。

 【写真説明】

 近畿大会V3に向けて練習する平安徳義会の子どもたち=西京区大原野灰方町で

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1995/01/05 朝日新聞 大阪地方版/京都
おやじの背中(駅・Kyoto あなたの中の戦後50年:2)/京都

 ◆京都駅の孤児らを守った「積慶園」の古村正樹園長。どんな人だったのだろう。

 一九八三年夏、兵庫県の城崎温泉のホテルで、五十歳前後の男女十人が酒をくみ交わした。初めて開かれた元園生の同窓会である。

 酔う程に、積慶園での生活が浮かんでくる。そして、「体中ゴシゴシ洗ってくれたよな」「みんなのシラミを取ったら、ほめられたな」「高校の学費はポケットマネーだったらしい」と、最後は、大柄で、丸坊主だったおやじ(園長)の思い出話にいきついた。

 古村園長は一八九八年(明治三十一年)、佐賀県杵島郡に生まれた。少年期は定かではない。福岡県小倉市(現北九州市)の職員になったが、結核を患い、法華宗の寺で仏門に入った。一九四〇年、本山のある京都に移り、四三年、本山が設けた「華洛青少年相談所」で非行、家出少年の世話を始めた。

 敗戦が生活を一変させた。駅に群がる子供たちを見捨てられなかった。敗戦直後は毎日、二十五、六人を園に連れ帰った。が、元気者は拘束されるのを嫌い、朝には姿を消した。全員を保護するのは不可能だった。冊子「積慶園座談会」(五一年五月)で自ら語っている。「手の出ぬ連中には汽車賃を与えて敬遠した。人相の良さそうなのを集めるように努めた」

 恵まれない子への思いは強かった。四六年七月、京都市職員が三、四歳の男の子を連れてきた。「駅の捨て子やから、江木捨彦(えぎ・すてひこ)という名や」。職員を怒鳴った。敏彦に改めさせ、その子の生のあかしとして、「駅(江木)」は残した。が、衰弱していたのか、数日後に死んだ。
 死と隣り合わせだった子供たちのそばを片時も離れなかった。

 シャモジを手にして、ご飯をよそった。大食いにはぎゅっと、小食の子にはふんわり。みんなの適量を知っていた。盆と正月には、似合いそうな服を選んだ。メンコの輪に加わり、一番多くひっくり返し、子供たちを悔しがらせた。物をくすねたり、年下をいじめた時だけ、ゲンコツが飛んだ。
 府の補助金も滞り、運営は苦しかった。借金を抱え、取り立て人も乗り込んだ。とはいえ、金が入ると初物のスイカをニコニコ顔で買ってきた。抜け落ちた口元を見かねた保母が入れ歯を薦めた。「子供にいい物を食べさせてからやね」
 六八年二月、糖尿病で入院。ベッドで、よく駅の思い出を語った。「『ぼんさんが来た』ゆうて、構内を逃げ回りよったな」

 六九年四月六日、永眠。七十歳だった。

 六六年四月、西京区樫原角田町に移転した積慶園に、幼児から高校生まで七十七人がグループに分かれて暮らす。創成期の大家族からミニ家族に変わったが、肩を寄せ合って生きることに変わりはない。

 孤児らと生活を共にした長男の現園長、正さん(六三)は振り返る。「園生の幸せを第一に考えていたおやじには、今も脱帽ですよね」

 戦の日々、子供たちに一筋の光を与えた園長。妻のハマさん(九三)が夫の心の片隅を話してくれた。「あの人の口癖は『よその人に育てられたから、よその子を育てるのが自分の運命や』でしたな」

 九五年初春。京都駅を着飾った人々が行き交う。地下街へ通じるシャッターの前で、二十人ほどのホームレスが寒さをしのいでいる。

 ●戦災孤児等保護対策要綱

 空襲で家を焼かれたり、親とはぐれて帰る場所を失った子供たちへの対策として、1945年9月、政府が打ち出した。養子縁組のあっせん、集団保護などを柱としていた。48年の児童福祉法施行後、孤児らの保護施設は養護施設へと整備されていく。

厚生省によると、48年3月、全国約270カ所の養護施設に約11100人が生活していた。こうした収容施設を舞台にしたNHKのラジオドラマ「鐘の鳴る丘」は47年から50年まで放送された。「みどりの丘の赤い屋根、トンガリ帽子の時計台、鐘が鳴りますキンコンカン…」という主題歌が人気を集めた。

 【写真説明】

 職員の手につかまる乳児。力強く生きようとする子供たちを支える古村元園長の精神は、脈々と受け継がれている=西京区樫原角田町の積慶園で  笑顔で子供たちと接する古村正樹元園長=1966年ごろ、上京区一条通七本松西入ルで

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1995/01/01 朝日新聞 大阪地方版/京都
命の広場(駅・Kyoto あなたの中の戦後50年:序章) /京都

 駅には、人を引き留める何かがある。改札口やホームで繰り返される、いとおしい者との出会いと別れ、そして再会。人間が交差する時、巻き起こる感情の起伏を、駅は黙って包み込んできた。

 一九四五年、戦火を免れた京都駅に、大阪や神戸から、親を亡くした戦災孤児が群がった。絶望感にさいなまれながらも死に急ぐことなく、ベンチに眠り、食べ物をねだり、ヤミ市を漂い、したたかに生き延びた。

 戦後50年という新たな旅立ちの年、駅に刻まれた出来事を振り返りたい。まず、五人の少年たちの話から始める。
 
(敬称略)

 ●「死ぬぞ」と声

 四五年十一月二十三日、十二歳の神沢少年は夕暮れの駅にいた。半ズボンにセーター姿。もう三日、何も口にしていない。

 待合室のベンチに寝そべると、体がふわりと軽くなった。薄れる意識の中で、思いを巡らせた。

 五歳で父を亡くし、母親も四四年十一月、他界した。上京区の伯父に引き取られたが、敗戦後、大阪府守口市の大工のもとへ見習いに出された。親方の子が金を盗んだのに、自分のせいにされ、飛び出した。伯父も「手癖の悪いやつだ」と決めつけた。「あてもなく、着いたところが駅だったのです」

 朝食は、駅前ステーションホテル(現ルネサンスビル)の裏に捨てられたパンやハムだった。接収していた進駐軍の食べ残しだ。「ジャムが甘かった」

 昼は塩小路通のヤミ市へ。五十メートルにわたってバラックやテントが並び、古着や靴、落花生、雑炊を売っていた。ふかしイモ屋でイモ洗いをして、握り飯をぱくついた。

 夜、駅前広場のあちこちに、たき火を囲む輪ができた。ネギやイモ……。それぞれの「戦利品」を空き缶で煮て食べた。そして、火が消えるまでの眠りに就いた。

 毎日、だれかが栄養失調で死んだ。少年もベンチで過ごす日が増えた。亡くなる人が待合室で眠るのは知っていた。
 「死ぬぞ」。戦災孤児を保護する積慶園の園長、古村正樹(当時四七)の声で目が覚めた。市電で上京区御前通一条下ルの園に連れられた。ドラム缶の熱いふろが、温かかった。
 「園長の声がなければ、人生の終着駅になっていた。駅は僕の原点です。でも、あのままベンチで死んだとしても、それもまた、人生と思うのです」

     *        *        *

 ■神沢義昭(かみざわ・よしあき、埼玉県川口市伊刈、62歳)■ 左京区生まれ。中学を卒業後、農機具製造会社に勤めたものの労働争議に巻き込まれて退職。58年、積慶園の仲間を頼って東京へ。現在、印刷会社勤務。長男、次男は独り立ちし、93年6月に初孫もできた。
 〈家族に孤児だということは話したが、駅での暮らしは話してません。新聞を見せますよ〉

 ●兄を見失った

 吉岡(旧姓朝間)少年(一二)は四六年九月、機関車を見に来た。雑踏に紛れ、五つ上の兄を見失った。

 腹が減り、団体客が残した菓子の箱を拾った。ういろうが三個あったが、四、五人の子どもに取り上げられた。赤茶けた顔、ぼろぼろの服。「新入りは、わしらが食ってからや」
 その夜、警察官にえり首をつかまれ七条署へ。大人や子供九十一人が捕まっていた。中央相談所に移されたが、父親は引き取りに来なかった。「食べるもん無いさかい、『頼んます』というたんかなあ」

 六人家族の家に、一人当たり二、三十粒の米しか無かったのを、少年は思い出していた。一週間後、積慶園に入った。

 楽しいはずの機関車見学。父は、なぜ迎えに来なかったのか。八一年、父親が死ぬ時にも聞けなかった。

 「あの日、駅に行かなかったら、親と一緒に暮らし、別の人生を歩んでいたかもしれない。だから、駅は懐かしいというより、怖い」

    *        *        *

 ■吉岡達夫(よしおか・たつお、兵庫県豊岡市気比、60歳)■ 左京区出身。中学卒業後に実家に戻り、駅前の観光旅館「美也古」で板前修業。その後、兵庫県の城崎温泉に移り、93年7月、ホテルの用度課主任で定年退職。妻と2人暮らし。

 〈七条署で警察官が番号札を配ったんで、91という数字が今も頭にこびりついていますね〉

 ●雑踏に妙な安心感

 神奈川県横須賀市で軍艦や戦闘機を見て育った東原少年は、特攻隊にあこがれた。屋根に上り、海上で繰り広げられる日本軍と米軍の空中戦に時を忘れた。

 敗戦。学校は授業が無く、家ではひもじかった。十二月、好奇心で貨物列車に乗った。十一歳だった。

 最初は東京。焼け野原を見た。「何もない」。向きを変え、静岡、大阪、そして京都にたどり着いた。一晩過ごし、ひげを生やしたダルマのような顔の古村園長が近寄って来た。

 「ぼうや、帰るとこあんのか」。本名を名乗って、家に帰されたくなかった。東原少年は、とっさに思いついた「石渡義夫」少年に成りすまし、園生になった。

 「人間には孤独を愛する気持ちと、つながりを持ちたいという二面性があると思うのです。駅ですれ違うのは見知らぬ人ばかりだが、雑踏の中で妙な安心感を抱く。家を出たのは、そんな駅に魅力を感じていたのかもしれないな」

   *        *        *

 ■東原明(とうはら・あきら、兵庫県姫路市飾磨区恵美酒、60歳)■入園から3年後、父親が迎えに来た。工業高校を出て富士製鉄(現新日本製鉄)に入社。69年に姫路の研究所に転勤。94年3月、定年退職。2女は嫁ぎ、孫が5人。

 〈札束を拾った時、園長は「交番に届けておいで」。トンズラもできたが裏切れなかった〉

 ●ネオン街では自分が主人公

 商店街の看板を見上げて漢字を読み、終われば、掛け算の九九をぶつぶつ唱える少年がいた。

 学校で習った事を忘れないようにしている。母は四二年に病死し、父も生活苦から敗戦直前、自ら命を絶った。七人兄弟は、ばらばらになり、次男坊だった細井少年(一一)は街に出た。

 四条大橋の下や駅で眠り、新京極で残飯をあさった。錦市場ではチクワを失敬した。駅の待合室で弁当を食べている人の横に黙って座り、「食べるか」という一言を待ち続けた。
 警察官の自転車を磨き、小遣いをもらった。靴磨きもした。稼ぎでスマートボールや映画館で遊んだ。「ネオンの街にいると、自分が主人公になった気がした」

 保護員に捕まってDDTをかけられ、真っ白になった。保護所に収容されては、ネオン街へ逃げた。「ほかの子は学校にいってるのに、おれは犬のような生活や」。四七年春、「学校に行かせたる」という言葉に引かれ、放浪に終止符を打ち、園に入った。

 「ヤクザにならなかったのは駅に温かさがあったから。貧しかったが、みんなやさしかった」

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 ■細井昭(ほそい・あきら、城陽市久世下大谷、61歳)■ 北区生まれで、大阪府立社会事業短大(現大阪府立大)卒。京都府庁で40年近く、福祉行政に携わる。現在は児童福祉施設の府立桃山学園の園長として、子供たちと暮らしている。

 〈貧しくても、人に思いやりを持つことを、駅の待合室が教えてくれました〉

 ●助け合う心学ぶ

 藤岡少年(九つ)の両親は幼い時に離婚した。母は再婚して仙台へ去り、父も出征し、大阪市浪速区の伯父の家で世話になった。四五年六月の空襲で焼け出され、群衆に流されて大阪駅に着いた。

 翌朝、京都駅近くの親類を訪ねたが、建物疎開で家もない。駅前の三畳ほどの防空壕(ごう)をねぐらにした。同年代の少年が三、四人いた。「お願いします」、「どうぞ」。段ボールを敷き、新聞紙にくるまり語り合った。

 家族の話はしない。互いの名前も明かさない。壕に水がたまる雨の日は、土管や待合室、神社のほこらに“転居”した。

 「三食ありつける」という言葉につられ、二十人ほどの少年と木炭トラックの荷台に乗った。着いたのは、積慶園だった。

 「生きるために食糧を仲間と分けた駅前生活は、初めて他人と助け合うことを教えてくれた。今、粗衣粗食で休日がなくても幸せと思えるのは、あの日々があったからでしょう」

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 ■藤岡眸(ふじおか・ひとみ、北九州市八幡東区宮田町、59歳)■ 京都市生まれ。中学を卒業後、うどん屋やパン屋で働いたが、長続きしなかった。59年、園長が修行したことのある北九州の寺で仏門に入る。現在、北九州市の常薫寺の住職。

 〈園を脱走し、駅のヤミ市で遊んだ。「珍しいな」と声がかかり、米や干物を食べさせてくれた〉

 ○積慶園50年、元孤児を捜す

 戦災孤児たちが敗戦の前後、京都駅に何人いたかは定かではない。ただ、財政もズタズタだった京都府がいち早く、「華洛青少年相談所」事務主任だった故古村正樹さんに救済を頼んだのは、事態の重さを物語る。

 古村さんは1945年9月23日、同青少年相談所を「積慶園」とし、駅にたむろする子どもたちを連れ帰った。積慶園のほか、46年には京都市内に「若宮寮」「北山寮」「指月寮」が開かれた。京都市児童福祉百年史(市児童福祉センター発行)によると、50年2月現在の市内の養護施設と乳児院の児童数は534人。

 現在、積慶園は西京区樫原角田町に移り、乳児院、養護施設を合わせて零歳から18歳まで77人が暮らす。

 園長室の書棚に古い帳面が今も残る。「積慶園台帳」。華洛青少年相談所時代の43年2月10日から61年1月20日までに入園した355人の名前が、100ページの和紙に筆で記されている。古村さんが書き残した。

 入園日を示す「収容」のほか、「逃走」「養子」「実父発見」「死亡」なども日付とともにメモされている。

 園は戦後50年の年に、開設50年を迎える。台帳でも、消息が分からない人は多い。古村さんの長男で、孤児と一緒に生活した現園長の正さん(62)は今一度、台帳を手がかりに元園生を捜すつもりだ。今秋、50年史を発行し、生き抜いた少年たちとのパーティーで顔を合わせ、時の流れを飲み干したいと思っている。

 ○京都駅−−新時代への槌音

 世界遺産を抱える古都の玄関口・JR京都駅。戦後二度目の建て替えが進み、新時代への槌(つち)音を響かせる。五十年という歳月を確かに歩んだ構内には、時々を刻む品々が携わってきた人々を呼び戻すかのように、ひっそり、たたずんでいた。

 来年秋の完成を目ざして建設が進む新駅舎は地上十六階地下三階、東西の長さ約四百八十メートルの西日本最大の駅ビルになる。総工費は約一千億円。

 延べ床面積二十三万八千平方メートルは、旧駅舎の二十倍ほど。西側に百貨店「ジェイアール京都伊勢丹」(売り場面積三万二千平方メートル)、東側にJR西日本のステーションホテル「グランビア京都」(五百五十室)が入るほか、約五千平方メートルの専門店街ができる。

 地下街「ポルタ」と合わせ、巨大なショッピング街ができ上がるわけで、四条河原町と商圏を二分化しそうだ。

 しかし、五十九・八メートルという高さに加え、五百メートル近い幅は、駅の南北を隔てる巨大な「壁」になる。「歴史的景観を破壊する」との批判はいまだに根強い。

 一九六四年、駅前に京都タワーが完成した時、「景観が台無しになった」と声を上げ、「お東さんのロウソク」とちゃかした京都人。駅ビルには、どんなニックネームをつけ、古都の歴史に組み入れていくのだろうか――。

 ○京都駅の50年

 1945年 4月 1日 疎開のための無賃輸送が始まる。

 10月 ステーションホテル横でパンが売り出され、ヤミ市が広がる。

      10月11日 疎開児童の第1陣が帰京。
 1949年 4月10日 京都−大阪間の急行電車が復活。

 1950年11月18日 アイロンの不始末で2階食堂更衣室から出火、ルネサンス様式の2代目駅舎が焼失した。

 1952年 5月27日 3代目駅舎が完成。8階建ての塔がある斬新(ざんしん)なデザインだった。
 1956年11月19日  米原−京都間が電化され、東海道線全線が電化。蒸気機関車が減り始める。
 1958年11月 1日 ビジネス電車特急「こだま」登場。東京への日帰り出張が可能に。
 1964年10月 1日 東海道新幹線開業。八条口駅舎がオープン。
 1970年10月 1日 新快速(京都−西明石間)が運転開始。
 1974年 7月20日 湖西線開業。
 1978年 9月30日 83年の歴史を閉じ、京都市電が姿を消した。
 1980年11月27日 地下街「ポルタ」オープン。
 1981年 5月29日 地下鉄烏丸線開業(京都−北大路間)。
 1987年 4月 1日 国鉄分割、民営化。京都駅はJR東海とJR西日本に分かれた。
 1993年10月 1日 3代目駅舎の取り壊し開始。仮駅舎がオープン。
 1994年 9月 4日 関西空港へ特急「はるか」が運行開始。

 【写真説明】

 新時代を迎え、六十メートルの駅ビルの基礎工事が進む。96年秋には西日本最大の駅ビルが誕生する=下京区で
 1977年の駅開業100周年を記念して置かれた新幹線の車輪=八条口乗り場で 印刷所で職業訓練を受ける園生たち。右端が神沢さん=1951年4月、中京区千本通丸太町西入ルでふろ用のまきを割る子供たち=1946年ごろ、積慶園で靴やお菓子のプレゼントに、笑顔がはじける子供たち。右端の丸刈りが神沢さん=1946年ごろ、積慶園で
 

積慶園に残された名簿

 (上)大正期からホームの屋根を支える古代ローマ風の柱。2代目駅舎時代は出口のそばで乗客を迎えていた=1番ホームで(右)(上)1950年の火災で焼け残ったシャンデリア=大阪市港区の交通科学博物館で(右)(下)2代目駅舎の正面にあったブロンズの獅子(しし)頭=駅の倉庫で

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1994/12/04 朝日新聞 大阪地方版/京都
師走に励む 各地で催し相次ぐ /京都

 木々が葉を落とし、冬の風情が漂い始めた三日、各地で師走を感じさせる催しが相次いだ。日中の最高気温は一二・三度。京都地方気象台によると、これから次第に冷え込みが厳しくなるという。二十日余りになった行く年を惜しむように、参加者たちは思い思いの週末を楽しんだ。

 ○もちつきで地域と交流 西京都病院秋桜寮

 もちつきで地域の交流を深めようと三日、西京区川島権田町、西京都病院秋桜寮でもちつき大会があった。

 西京区内の「つばさ園」「積慶園」の子どもたち約四十人と、地域の一人暮らしのお年寄り約三十人が招かれた。

 病院の職員らは落ち葉で埋まった中庭で、「ヨイショ、ヨイショ」の掛け声に合わせて三十キロの米をついた。子どもたちも飛び入りで参加し、大人の助けを借りて代わる代わる杵(きね)を振りおろした。

 あんこを入れたり、きなこをまぶしたもちは集まった人や病院の患者たちも味わった。

 同病院の梶並溢弘院長は「地域の人々と触れ合う場が持ててよかった」と話していた。

(略)

 【写真説明】
 もちつきを楽しむ子どもたち=西京区川島権田町で

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1993/12/04 朝日新聞 大阪地方版/京都
施設の子らを京都タワーへ Xマス恒例行事、30回目 /京都

 京都市内の養護施設「積慶園」や知的障害児施設「大照学園」などに通う子どもたちが三日、下京区の京都タワーに招かれた。市民の善意で寄せられた基金によるクリスマスの恒例行事で、三十回目。

 招かれたのは十四施設の約百二十人。展望台に上がり、望遠鏡をのぞいて清水寺などの名所を探し当てたり、遠くを指さして、付き添いの職員に質問するなど、「空」からの眺めを楽しんだ。その後、文具、菓子、ジュース、クリスマスケーキなど、一足早いクリスマスプレゼントを受け取った。
 この催しは京都タワーが完成した一九六四年、「体の不自由な子どもたちに、古い都の町並みを楽しませてあげたい」と、市内の主婦が金を届けたのを機に始まった。この主婦は今春亡くなるまで毎月千円ほどを送り続けていた。

 この催しを知った数人の市民も応援、同タワーに納められた基金で招かれた子どもたちは延べ四千三百人を超えているという。

1992/08/29 朝日新聞 大阪地方版/兵庫
第41回近畿児童福祉施設野球大会・28日 兵庫

 ◇第41回近畿児童福祉施設野球大会(28日・西宮厚生年金スポーツセンター)

 【1回戦】神戸市立子供の家8―5旭学園(和歌山県)▽舞鶴学園(京都府)10―0甲賀学園(滋賀県)▽広畑学園9―2積慶園(京都市)▽大阪市立弘済院児童ホーム10―0天理養徳院(奈良県)

 【2回戦】東光学園(大阪府)5―4神戸市立子供の家
 【準決勝】広畑学園4―3大阪市立弘済院児童ホーム

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1992/02/24 朝日新聞 大阪地方版/京都
児童ら文化のつどい 京都

 京都市内の児童福祉施設に入所している児童らが、日ごろの活動の成果を発表する「文化のつどい」が23日、京都市内であった。約500人が参加し、演劇や合唱、絵などを発表しあい、交流を深めた。

 参加したのは、養護施設、乳児院、母子寮計14施設の児童ら。山ノ内母子寮の児童らは、蛍光塗料で描いた人形に光を当てて浮かび上がらせる幻想的な「ブラックランプ人形劇」で、「アリババと40人のとうぞく」を上演。積慶園の児童らは、けん盤ハーモニカやメロディーベルなどの合奏と合唱で、会場から拍手を受けた。

 このつどいは、各施設のサークル活動を公開、交流する場として9年前から、京都市と同市児童福祉施設児童健全育成事業推進協議会(古村正会長)が主催。古村会長は「施設の子どもたちが、元気に明るく活動している姿を多くの人に見て欲しい」と話していた。


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